教えのやさしい解説

大白法 555号
 
大福田(だいふくでん)
 福徳を生ずる田
 福田(ふくでん)とは、福徳を生ずる田(た)という意味で、「福」は福即利益であり利得を、「田」は生長の義を表します。つまり福田とは、多くの作物を収穫(しゅうかく)することができるという、良い性質を持った田のことをいいます。
 仏法では、仏・法・僧の三宝(さんぼう)がこれに当たります。田畑が作物を実らせるように、仏や僧を恭敬(くぎょう)し布施することによって福徳を生ずることが田のごとくであることから、三宝を総称して福田とも呼びます。

 福田の種類
 福田は雑阿含経(ぞうあごんぎょう)はじめ、各種経典に説かれており、それらには二福田(学人田・無学人田)、三福田(報恩福田・功徳福田・貧窮福田)、四福田(趣田・苦田・恩田・徳田)、八福田(仏田・聖人田・僧田・和尚田・闍梨田・父田・母田・病田)等の区別があります。
 八福田の中の仏・聖人・僧の三田は、敬うべきものであることから敬田、次の和尚・闍梨・父・母の四田は、恩に報いるべきものであることから恩田、さらに最後の病田は、慈悲の心をもたなければならないものであることから悲田ともいわれます。諸経に説かれる福田も、すべてこの敬田・恩田・病田の三田に大別されます。

 二乗に施す者は福田と名づけず
 世間で「一粒万倍(いちりゅうまんばい)」という言葉があるように、良い田に種を蒔(ま)けば、その蒔いた種の数よりもたくさんの収穫物が得られます。反対に、悪い田に種を蒔けば、むしろ蒔いた種の数よりも獲(と)れる作物の数のほうが少ないことや、あるいは全く収穫できないというようなことがあります。そこで種を蒔く場合には、田の善(よ)し悪(あ)しが大変重要となります。
 無量義経には、文殊師利(もんじゅしり)菩薩等の諸菩薩の利他(りた)の徳を讃歎(さんとく)して、
 「是(こ)れ諸(もろもろ)の衆生の大良福田」(法華経 四n)
と説かれています。これは諸菩薩が衆生にとっての福田、すなわち良い田であることを明かした文です。
 また浄名経(じょうみょうきょう)には、迦葉(かしょう)や舎利弗等の二乗に対して、
 「汝に施す者は福田と名づけず。汝を供養せん者は三悪道に堕す」
と説かれています。これは、仏・菩薩に対して施すことは福田であるが、二乗に施すことは福田とはならずに、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちる行為となるということです。
 爾前経(にぜんぎょう)においては、永不成仏(ようふじょうぶつ)とされた二乗に布施することは、石ころばかりの悪く痩(や)せた土壌に種を蒔くことと同じであり、その種は腐(くさ)って生長しないと説かれています。これは田が悪いからであり、仏・菩薩という良い田に種を蒔けば百倍、千倍の収穫を得ることができるのです。
 このように、供養すべき徳のある方に供養することが、福田の大事な意義です。

 仏は第一の福田なり
 福田について、法華経の結経(けっきょう)である普賢経(ふげんぎょう)には、
 「仏の三種の身は、方等(ほうどう)より生ず。是れ大法印なり。涅槃海を印す。此の如き海中より、能(よ)く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は、人、天の福田、応供の中の最なり」(法華経 六四五n)
と説かれています。
 妙法の功徳によって浄化された仏の三種の身(法・報・応の三身)は、そのまま一切衆生の帰依処(きえしょ)であり、人界・天界にとって供養すべき福田の中の福田です。
 『大智度論(だいちどろん)』に、
 「仏は三界に於て第一の福田なり」
と説かれ、また『涅槃経疏(しょ)』に、
 「応供(おうぐ)とは、是(これ)上福田にして能く善業を生ず。是を世の主と為す」
と説かれているように、第一の福田は仏を供養することであり、前述の敬田・恩田・悲田の三福田の中でも、仏を含めた三宝を供養する敬田が一番根本となるのです。

 末法における大福田
 日蓮大聖人は『蓮盛抄(れんじょうしょう)』に、
 「本分の田地とは何者ぞや、又何(いず)れの経に出でたるぞや。法華経こそ人天の福田なれば、むねと人天を教化(きょうけ)し給ふ。故に仏を天人師と号す」(御書 二七n)
と仰せられ、本分の田地とは、法華経に説かれる福田であることを御教示されています。つまり、二乗作仏や悪人・女人の成仏を説き明かす法華経の功徳こそが最も大きな福徳なのです。
 この最も大きな福徳を生ずる田、すなわち大福田について、大聖人は『開目抄』に、
 「大覚世尊、此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁(だいきょうりょう)・大船師・大福田等なり」 (同 五二六n)
と仰せになり、大覚世尊すなわち法華経の教主釈尊をもって大福田とすることを明かされています。そして同抄の末に至り、
 「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」 (同 五七二n)
と示されて、御自身が主師親の三徳であり、前述の大導師・大眼目・大船師であることを明かされるのです。これによって、久遠元初(くおんがんじょ)の御本仏・宗祖日蓮大聖人こそが、末法の大福田であることが明らかです。

 大福田に真心の御供養を
 末法に生を受け、宗旨(しゅうし)建立七百五十年の大慶事を目前に控えた本宗僧俗は、大聖人が『衆生身心御書』に、
 「設(たと)ひこうをいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設ひ心をろかにすこしきの物なれども、まことの人に供養すればこう大なり。何(いか)に況(いわ)んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや」(同 一二一七n)
と仰せのように、大福田たる本門戒壇の大御本尊に真心の御供養を奉り、奉安堂を立派に建立して、御本仏の大慈大悲の御恩徳に報いることが肝要です。
 私どもは、大福田へ蒔いた種が大福徳となって収穫されることを確信し、日々精進してまいりましょう。